ボールがバットの芯を捉えた小気味のいい音が、いつまでものび太の耳に残り、彼を苛み続ける。

放課後、今日は彼の愛読している少年月刊誌の発売日であったから、放課後を告げるチャイムが鳴るなり帰宅の途につこうとしていた彼が教室の扉に差し掛かったとき、その前にぬっと大きな壁が突然現れたのだ。

無論、言うまでもなくその山はジャイアンその人なのであり、抵抗虚しくそのままのび太はジャイアンに空き地へと連行されてしまったのである。

そうしてピッチャーに用命された彼はジャイアン達によって、それこそその音が耳から離れないほどに打ち込まれてしまったのであった。

結果は1回コールド、24対2。
どちらがどちらであったかは言うまでもないであろう。


そうして日も暮れた頃、足を引き摺りながらものび太は家路に着いていた。

今や彼を動かす原動力は、本来この時間には満足気に読み終わっていたであろう少年月刊誌であった。

彼の中に残る一縷の望み。

それは、彼の“親友”がそれを既に買い、親友の大好物であるどら焼き片手に読みふけっていることであった。

もはや彼に本屋に寄って買いに行くほどの気力も、体力も残っていないのであった。

そうして気づけば目の前には見慣れた玄関の扉。
安堵感に涙腺が緩みかけるが、ぐっとこらえ、ドアを開いた。

「ただいま………。」

疲れ果てた身体で、なんとか声を絞り出す。

「あら、のびちゃん。こんな遅くまでなにやっていたの?」

その微かな声を聞き取って、玄関からすぐの居間から、母親が出迎えてくれた。

空き地の砂埃やら何やらで汚れたのび太の姿をみて、一瞬ぎょっとした顔をしたものの、声色は優しかった。

どうやら、今日は機嫌がいいようである。
いつもならこの姿を見られた途端にその顔は見る見るうちに高潮し、すさまじい怒鳴り声が鳴り響いたであろう。

「いや…ジャイアンたちと…空き地で野球してて…。」

母の機嫌がいいのを感じ取ったのび太は、正直に何をしていたかを述べた。

「そう。早く洗濯物を洗濯機に入れて、着替えてらっしゃい。ご飯が炊けたら晩御飯よ。」

そういい残し、母は再び居間へと戻っていった。

大方ワイドショーでもでも見ているのであろう。
居間に戻るなり、愉快気な母の笑い声が聞こえてきた。

まさに不幸中の幸い、そう心の中で呟きつつ、のび太は汚れた服を器用に歩きながら脱ぎ、のんびりと口を開けている洗濯機に放り込んだ。

そうして自室へと向かう階段に足を乗せた時、居間のふすまが再び開き、母の頭がひょっこり出てきた。

ひょっとして、今の傍目には行儀の悪い服の脱ぎ方を音で察知されてしまったのだろうか、ああやっぱり今日はついてないな、と母の言葉を気持ち身をすくませながらのび太は母の言葉を待った。

「そうそう、ドラちゃんにも伝えてね。ご飯もうすぐだから、って。」

と、母は短く述べると、再び居間へと戻った。

「はーい。」

閉じたふすまに返事をし、ほっと胸をなでおろしたのび太は、自室へ向かう。

「ドラえもん、ちゃんとコロコロ買ってるかなぁ…もう読み終わってるといいな。取り合いは面倒くさいもの。」

そう独り言を呟いて、のび太は階段を疲労感に抗いながらも上りきり、自室へとつながるふすまに手をかけた。

「ただいまー!ドラえもん、コロコロ買った?読み終わった?ところで、もうすぐご飯だってさ。ママが言ってた。」

ふすまを開け放ちながら、今までの疲れは何処へやら、元気よく部屋の同居人かつ親友へと声をかける。


だがしかし、返事は返ってこない。

のび太は不思議に思い、部屋を見渡すも、その用途を果たしていない机と、マンガで埋め尽くされた本棚以外には何も、誰もいない。

―――ドラえもんのやつめ、まだコロコロ読み終わってないからって、僕に隠れて読んでるな…?そうはいかないぞ、この部屋で隠れる場所なんて一つしかないんだ。

そう心の中で呟きながら、のび太は部屋に入ってすぐ左手のふすまに手をかける。

この奥には上下に分かたれた収納スペースがあり、下段にはのび太のガラクタや幼少時の思い出の品などが詰まっている。

そして、これが現在の彼の目的なのだが、上段は今現在、同居人であるドラえもんのいわば寝室となっているのだ。

彼はドラえもんはそこに隠れて、マンガを楽しんでいるに違いないと見当をつけたのである。

小さく息を吐いて、一気にふすまを引き放つ。

「ドーラーえーもーんー!!隠れたって無駄だぞ!早く僕にパーマン読ませてよ!」

目の前には、おそらく笑いをかみ殺していたせいであろう、目尻に涙を一杯にためながら、しかしその目はのび太にばれたことにより驚きを隠せていないドラえもんがいる。


はずだった。


部屋は再び沈黙に包まれる。

居るであろうと踏んでいた押入れにすらいない。

それは同時に、この部屋にドラえもんが存在していないことを意味する。

あまりの驚きに呆然と立ち尽くすのび太の頬を、夜風がそっとなでた。

ハッとして、窓のほうへ顔を向けると、そこには開きっぱなしの窓と、風ではためくカーテンがあった。

「くそ、ドラえもん、そこまでしてコロコロを独占しなくたっていいじゃないか。パーマン読んだらいったん返したのに。ちぇっ。ま、もうすぐご飯だし、その頃には戻ってくるだろう。」

そう呟いて、のび太はマンガをあきらめた。そうして、親友の帰りを待ったのであった。

けれども、晩御飯のときになっても、風呂に入るときになっても、そればかりか寝る頃になっても。

ドラえもんは姿を現さなかった。



そうして結局、その夜、ドラえもんが帰ってくることは、なかった。